梅雨前線逃散行
どうにもならなさを抱えて生きている。何を思えども、何もならず。二ヶ月を棒に振って、云十万を溶かしてみて、減っていく残高に暗い喜びを覚える。
先月末に北へ逃げて、また逃げだしてている。
まとわりつく湿気に嫌気が差して、京都から逃げ出す。祇園祭なんて、ゲッ。人の群れを見て何が楽しいんだ。マツリの賑わいにも嫌気が差すし、これから少しすればヴァカンスだかなんだかでまた人が増える。他人のことはとやかく言えても、同じ穴のムジナが何かを言ったところで鏡を見直せ。
逃げ出すたびに、心の軽さを覚える。仕事そ探そうとか、そういう気にはどうにもなれない。カネが尽きればそれまでと、ケラケラ笑って酒を飲む。ビカビカ光る箱と向き合っているよりはずっといい。
そうしてみると、自分は一体何から逃げ出しているのだろうか。だいたい、物心ついたときから何にでも逃げ出している気がする。何事かに本気になる、ということがどうにもできない性分らしい。あるいは自らの生というものに対して本気になることができないのだ。バカバカしさにやっていられない気分になる。
人生なんて有るといえば有るし、無いといえばそれまでのもので、せいぜい五十年。敦盛は寿命の話ではないが、しかし、さしてかわりのあるまい。一生がただ夢の如きものであるのなら、また寿命が五十年でも百年でも差などなく、等しく夢々、苦痛を呷るも、幸福を呷るもそれは癖であって、せいぜいそれを味わうだけのことである。
たとえばバカバカしくも20キロ近い本を抱えて日本を縦断、梅雨前線から逃れようというのもまた好しである。富山、新潟と北上して、山形あたりでようやくこのまとわりついたなにがしかを振り払おうとする。
敗けた人間がなにかを得ようと思うべからず。である。けだし、イエというものにこもるのがよろしくなく、所有物というものがあるのは未練そのものというものではないだろうか?