枝葉散花

詩やら写真やらを垂れ流します。

【読書感想】ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

 京都が舞台で、京都では先行公開されているということで二、三日前に映画を見た。映画を見て、小説を買ったので感想を書く。

 本日から公開、なかなかの良作だった。映画と小説で違うところ、同じところ、それぞれの表現方法の差を探すのも楽しい。

 

nuishabe-movie.com

www.kawade.co.jp

 

 以下感想。

 

 人と関わることは常に傷つき、傷つける危険性から逃れられない。私たちはフォーカスを外すこと、鈍感になることでそれを許容する。ある程度の範囲までは許容し、そのようにしてコミュニティに所属し自己利益を確保する。私たちはもはや完全に一人になることなど出来はしない。嫌が応にも誰かと関わらなければならない。たとえそれがどんなに薄い関係性であったとしても、である。それが出来なければ死ぬしかない。そういう生物である。

 見え過ぎることは個人の幸福とは結びつかない。他方、わたしたちは事のすべてを認識しているのでもない。見えることが事の全てではないということを私たちはまた知っている。

 私たちは、つながりすぎている。地球の反対側の情報さえ数秒でめぐり、遠くの誰かとさえ即座につながることが出来る。あらゆる苦しみ、見もしない誰かに与えているかもしれない苦痛、そういうものも含めて。爆発しすぎた人口は、ただでさえ狭い世界を狭くする。それらはテクノロジーによって強制的に接続される。

 あるいは、つながるということはそこに共有される法則に従うということでもある。笑えもしない冗句に笑わなければならない。男らしく、女らしく、見たくもないものを見せるな。間違ったことには声を上げろ。やもすれば全体主義的なそれ。繋がりすぎた集団は、もはや一個人の力では制御できない。誰も何も知らないのに、誰でも何もかも知っている。息が詰まる。

 ぬいぐるみサークルは、ぬいぐるみに話しかける人たちのサークルだ。部室は350体のぬいぐるみに囲まれ、そこでは誰かの語りかけを聞かないように耳をふさいだ人たちがぬいぐるみに話しかけている。実際にその場にいたらたぶん面食らうだろう。中心的な位置を占めるコミュニティでないことは間違いない。そのようにある種周辺化が行われた場所であるからこそ、つながることの苦しさから逃れられる場所になる。

 

 本作はジェンダー問題にまつわる色々のことがでてくる。けれども、どうにも自分にはジェンダー問題というのは必ずしも本作の主題ではないように思われる。もっとも、単に私の読み替えが過ぎているだけの話かもしれない。あるいは当たり前にありすぎて、単に一緒に写り込んでしまっただけの背景について喋っているだけ。作者が見ているもののすべてを自分は見ることが出来ないから、見るものが変わるのは当然だ。

 見ているもの、見ているけど無視しているもの、見えないもの。幾重にも加害と被害の関係性が描かれ、それらはフォーカスを少しだけぼやけさせて描かれている。男と女、都市と地方、エリートと非エリート、若者と年長者、陽キャ陰キャ

 私が注目に値する登場人物として目を引いたのは白城ゆいという存在だ。

 白城ゆいは最も“自由な”存在だ。彼女は戦わない。けれども、ただ無抵抗な存在であるわけでもない。彼女は周辺化された存在ではない。社会の中心へ向かって自分の居場所を確保することが出来る位置にいる。ただ周辺に行くことが出来る存在でもある。

 彼女はある場面では“社会問題の話ができずに猫の動画を見せれば笑っているような”存在として描かれる。今どきの、ありがちな若者像。本当にそうなのだろうか?

 彼女は最後に自らの居場所を決定する強さをきちんと持っていることが描かれる。そしてまた七森の言うことに対しては『そういう正義感みたいなの、しんどいから』とはっきりとした拒絶を示してもいる。

 『話さないと相手のことにも自分のことにも気づけない』と言った七森は、フェミニスト地味た言動を白城に引かれている。けれども対話をすることで自分が傷つくのを避け、猫の動画を見せれば笑うのが白城だと見下したのは七森が先だ。だから『文句いってばっかり』と白城が言う意味はまた別の色彩を持つようになる。そこには、あるいは『口先だけか?』という問いが含意され得るだろう。ただ七森が“そういうもの”としてしまったに過ぎない。七森の持つ正しさは、けれども白城にとってはそうで“も”ない。

 ある主義主張を持った人々は、しばしば教条的に主義主張に参加することを要求する。正しさを信じて疑わず、当然の顔をして要求する。それをセクト主義という。セクト主義に対話は不要である。正しいことは無謬だから対話なんて不要だ。

 七森は白城に対して“女性なんだからフェミニズムは当然だろう”という態度で見ている。そして期待を裏切られたから失望して見下している。ある意味で白城を性的に消費している。それは白城には見透かされている。けれどもある一線は越えなかったようだ。それは七森が同性であったとしても許されない一線だっただろう。

 もしも七森が別れ際の時点で“白城の生きづらさをもっと知りたい”と踏み込んだりしたら対話が成立しない相手、として切り捨てられたのではないかと思う。けれども、七森の存在が生きづらさそのものになってしまった可能性を七森は気づいたから、白城はぬいぐるみサークルの方に残るという選択肢を選び得たのだろう。

 

 私はこう思う。抑圧がある。それに正面から戦わなければならないという道理は存在しない。と。抑圧と戦っているように見えないからといって戦っていないわけではないのだ。白城は白城なりのやり方でそれを見据えているのだろうと思う。そしてそういう白城みたいな人たちが多くいることを私はよく知っている。

 主張を大きくできる人は英雄的だ。けれども、わたしはそれを必ずしもよいことと思わない。簡単に主張でき瞬く間に拡散する現代では、意図と離れたところで主張しない人をただ浅学で無思慮な存在に抑圧しかねないからだ。

 カントに曰く、”他者を手段としてのみならず、目的としてとらえよ(道徳形而上学原論)”。けれどもあまりに多くとつながりすぎる現代はただの集団として。他者は手段にしかなり得ない。だからつながりすぎた世界では対話は成立し得ない。ますます息苦しい。

 ぬいぐるみサークルは、ある種の逃げ場だ。周辺化された場でつながりはごく緩やかなものになる。そういう十分にちいさな集団だから対話は生まれ得る。けれども、もしも白城ゆいという存在がいなかったらただ内側に向いてしまうばかりだろう。そうしてきっと、ぬいぐるみたちに苦しみを吐き出すことしかできない。

 優しさから自由にしたい白城は――、というところで、いちばんやさしいのは白城だなと思った。そんな白城ゆいという存在がいるから、七森たちはぬいぐるみサークルの外側の苦しい世界と緩やかにつながって、対話していけるんじゃないかと想像させる。

 たぶん、そうやって社会は進歩する。

 

 以上。

 

おまけ

 映画では、より対話という面が強調されているので、もしも映画と小説を見て良かったと思えるのなら一冊紹介しておきたい。

www.akishobo.com

 日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、エンパワメントの概念を提唱した思想家による本である。対話がどのように行われどうあるべきなのかということを論じている名著。教育学とあるけれども、内容は児童教育のものではないので誤解なきよう。