枝葉散花

詩やら写真やらを垂れ流します。

anesthesia

 コロナ禍以来の空白を、どのように了解すれば良いのかわからない。

 わからない、ということはない。ただ空白なのだ。それしかわからない。

 三年という時間を無駄に浪費させただけなのか、自分は何を思っていたのか。あるいは職業的なところから抱いた怒りだとか、全てが虚構のように思えてきてしまうので。そこにある空白と、断絶以外のことを認知できないでいる。

 死にかけの人々を、布切れ一枚渡されて。罹ってしまえば自己責任。深刻そうな顔で高説のたまう言論人も、もとより傷病死苦の支配する城には来るわけもないのだから、煩瑣な言葉はタバコの煙と同じだ。

 仕事の忙しさに身を任せていられる間は、特にそれが殺人的なものであるのなら種々の痛みを忘れさせる効用もあろうというもので、労働者である間、この三年はまったく、虚無の強大な力だけが身体を支配していた。

 この国の中心には虚無だけがあれば良い。と、そのように言ったのは誰だか思い出せないが、虚無の渦巻くこの国で私はふとあるとき痛みを見出したので、もう虚無に耽溺することも出来ないでいる。

 元来、アナキストを自称するのであれば、政治などとは関わらずにただ気に食わないものを棍棒で殴るだけでよい。無政府主義者無政府状態をどうにかしようなどというのがいったいトンチキそのもので、特別この三年はトンチキであった。あるいはそれを若さというのかもしれないが、ある日には突然全てがどうでも良くなり、虚脱、放心、しかし魂はなにかの充足を得ていたのだから不思議なものだ。

 糞溜めの糞にお前は糞だと言ってみたところで何も響くはずもなかろうというもので。しかし、知らないということはまったく情けなく、道義だの倫理だのをオオ真面目に説いてみようとしたりする。実に滑稽そのもので、さぞ笑える姿であったろうし、ある方面には迷惑千万そのものだったでしょう。今は心から申し訳ないと思います。もとより頭で考えるより先に体を動かすタチの私には、それを解するのに三年か、あるいは十年かの体感が必要であったのです。

 苦心賛嘆、苦労は買ってでもせよ、などという人間がほんとうには苦労などしていないのと同じことで、本心から苦労する人間は苦労を認識することをしたりしないのだから、私の言うようなことに意味が纏っていないこともまた明々白々で、本来的にはただ示すことしか出来ません。ゴチャゴチャと何事かを喋ることは、ヤニを吸って毒霧を吐き出すのと同じことです。それは快楽であっても幸福ではないし、禁煙時代にそんなことをすればただ顰蹙というもの。

 変に賢しい大馬鹿者よりも、大衆のほうが数段賢く、自然とそれを知っている。そんなものは動物の本能と何ら変わらず、およそ文明の態度ではないけれど。しかし、まあ同じことです。自覚と無自覚の、その間にいったいどれほど事の高低がありましょう? 心得のある無しで、やることは同じなのだから意味がない。

 賢しさを装うよりも馬鹿者であることのほうがよほど難しい。偉ぶってみたところで、お前が馬鹿なことに変わりはないのだから、いくら憎悪したって、糞溜めの糞にお前は糞だと罵るトンチキさは隠せやしないのだから、まったくどうして、笑ってしまう。

 SNSの毒沼に、毒霧吐いて喜ぶ精神のどこに気高さがありましょう。毒霧吐いて、痛みを忘れられたところで、そんなものに魂が宿るはずもなく、怖くもなんともありません。ただ麻薬中毒者が生まれるだけのこと。anesthesia、望むなら快楽に浸ることもできようが、魂の健康をイケニエにして切り刻んでいるだけにすぎない。

 痛みを忘れられているうちはそれでも良いのかもしれないが、それは結局麻酔でしかないからいつかは切れるもの。痛みを忘れている間にも血は流れてしまうのだから、早晩失血死するだけです。

 麻酔中毒者の末路は廃人でしかないということは知っていても、それに気がつくまでは楽しめるということを知った。それは幸福か? いいや単なる快楽だ。幸福とは快なるものか? 幸福が快”であるのなら”そのとおりだ。