枝葉散花

詩やら写真やらを垂れ流します。

森を歩く。

   

 森の中を歩く。蒸し暑さとは無縁でとても心地が良い。湿度は有るが、それも潤い。暑さが伴えば苦痛であるけれども22℃ではそうはならない。

 暑さは脳の縮小を招くらしい、という論文を目にした。避暑を求めるのは実際健康に良いらしい。

 山道を歩いているとただ無心になる時が来る。ただ歩くということだけに集中する。暑さの中ではそうは行かない。口渇に耐え、暑気に耐え、そうしてようやく何かを為す。しかし耐えるということはそれだけのリソースを割く。もしもただ肉体のみで耐えようと思うならばそれはパフォーマンスを低下させ、快適さを求めれば電気代を差し出さなければならない…。京都の今日は36℃を超えたとか、湿度も伴えば地獄絵図か。雨が降れば川に沈むこともできまい。低気圧に囲まれていても、梅雨の前線もここまでは伸びてこない。至極快適である。

 道の途中に紫陽花が咲いていた。気温が10℃も違うのに咲くタイミングは桜ほどは違わないらしい。道中の東北でも見事に咲いていたし、京都でも(暑さに少し枯れ始めていたが)咲いていた。紫陽花は温度よりも日照が咲き誇るタイミングを決めるのだろうか?

 曇り空というのは難しく、カラー写真にするには平坦に過ぎ、光量を確保するにも難儀する。白黒であればどうだろうか、しかし、白黒は光量の他に彩度を考慮する必要はないからかえって難しくはない。しかし自身の目で見るに、曇り空は最も美的であり得るのではないかと思われる。より記憶的にあるところでは、より記録的な方法である写真では必ずしも真実を切り出すわけではない。写真は写像的であるのであって、写実ではない。

 写実主義絵画は廃れたが、絵画が写真によって死んだというわけでもない。写実性は像を写し取ることが目的というわけではないからで、写像性を求める写真とは異にする。結局のところ、像の向こう側にあるものを見いだせるのならその手法自体に意味はない。

 写真を取ることがあまり楽しくなく、他方景色を見ることを楽しんでいる。もっとも、二ヶ月ほど死んでいた(あるいはそれ以上に)感性でなにが見えるのか、あまり意味はないかもしれない。