枝葉散花

詩やら写真やらを垂れ流します。

蜘蛛の糸

 薄ぼんやりと考える。

 考えるということはない。暑気にやられているだけだ。

 何をするのかを私は識らない。ただ辟易としてうろついているだけだ。

 蜘蛛の糸は垂らされれば救いであるか、囚われれば喰い物だ。

 映り込めば明晰さは失われ、そうして邪険にされるもの。

 ただ生きているだけのことなのに振り払われて。

 切られてしまっても誰も知らない。

 無いものは探すこともできないのだがね。

観光地の裏道

 観光地に来ているからといって観光をしなければならない、という道理はない。

 坂を一本隔てただけで誰も寄らず静かな世界が広がっていたりする。良い景色が広がっていたとして、知られなければ存在もまた無い。(観光においては)知られていない存在に価値も無い。観光とは既知の体験である。けだし反復であって自ら存在するだけの幻になろうとする行為である。観光客なんていうものは存在するだけの幻で、夢が覚めれば消えて居なくなる。非現実的な世界観の中でのみ観光は成立するのであって、生活は不要だ。

 

 SNS映えする風景を撮るのは容易い。既知のことを真似るだけでよいのだから、そこになにかの作為は必要がない。SNSに浸り切るというのは自らの生をすべて観光にしてしまうことではないのか?

 いや、バカバカしい話だ。こんなのはただクダを巻いているに過ぎない。

 観光のための場所は散歩をするには向いていない、という方が正しいのかも。

 素通りして歩くことになんとなく罪悪感を抱いてしまうから、どうにもその場に背を向けてしまうのかもしれない。居心地の悪さを覚えるから。どうにも逆張りばかりしたくなるただの天邪鬼。

 しかし、それで良いのかもしれない。相互に距離をおいていたほうが良いのだ。生活と観光が混ざりすぎず、分離しているから逆張りしてる人間も生きやすい。

 

 今日はよく晴れていた。風が吹けば涼しく、日が差せば暖かい。湿気もなく歩くに良い日だった。青が美しく澄んでいる日だった。

森を歩く。

   

 森の中を歩く。蒸し暑さとは無縁でとても心地が良い。湿度は有るが、それも潤い。暑さが伴えば苦痛であるけれども22℃ではそうはならない。

 暑さは脳の縮小を招くらしい、という論文を目にした。避暑を求めるのは実際健康に良いらしい。

 山道を歩いているとただ無心になる時が来る。ただ歩くということだけに集中する。暑さの中ではそうは行かない。口渇に耐え、暑気に耐え、そうしてようやく何かを為す。しかし耐えるということはそれだけのリソースを割く。もしもただ肉体のみで耐えようと思うならばそれはパフォーマンスを低下させ、快適さを求めれば電気代を差し出さなければならない…。京都の今日は36℃を超えたとか、湿度も伴えば地獄絵図か。雨が降れば川に沈むこともできまい。低気圧に囲まれていても、梅雨の前線もここまでは伸びてこない。至極快適である。

 道の途中に紫陽花が咲いていた。気温が10℃も違うのに咲くタイミングは桜ほどは違わないらしい。道中の東北でも見事に咲いていたし、京都でも(暑さに少し枯れ始めていたが)咲いていた。紫陽花は温度よりも日照が咲き誇るタイミングを決めるのだろうか?

 曇り空というのは難しく、カラー写真にするには平坦に過ぎ、光量を確保するにも難儀する。白黒であればどうだろうか、しかし、白黒は光量の他に彩度を考慮する必要はないからかえって難しくはない。しかし自身の目で見るに、曇り空は最も美的であり得るのではないかと思われる。より記憶的にあるところでは、より記録的な方法である写真では必ずしも真実を切り出すわけではない。写真は写像的であるのであって、写実ではない。

 写実主義絵画は廃れたが、絵画が写真によって死んだというわけでもない。写実性は像を写し取ることが目的というわけではないからで、写像性を求める写真とは異にする。結局のところ、像の向こう側にあるものを見いだせるのならその手法自体に意味はない。

 写真を取ることがあまり楽しくなく、他方景色を見ることを楽しんでいる。もっとも、二ヶ月ほど死んでいた(あるいはそれ以上に)感性でなにが見えるのか、あまり意味はないかもしれない。

梅雨前線逃散行

 どうにもならなさを抱えて生きている。何を思えども、何もならず。二ヶ月を棒に振って、云十万を溶かしてみて、減っていく残高に暗い喜びを覚える。

 

 先月末に北へ逃げて、また逃げだしてている。

 

 まとわりつく湿気に嫌気が差して、京都から逃げ出す。祇園祭なんて、ゲッ。人の群れを見て何が楽しいんだ。マツリの賑わいにも嫌気が差すし、これから少しすればヴァカンスだかなんだかでまた人が増える。他人のことはとやかく言えても、同じ穴のムジナが何かを言ったところで鏡を見直せ。

 

 逃げ出すたびに、心の軽さを覚える。仕事そ探そうとか、そういう気にはどうにもなれない。カネが尽きればそれまでと、ケラケラ笑って酒を飲む。ビカビカ光る箱と向き合っているよりはずっといい。

 

 そうしてみると、自分は一体何から逃げ出しているのだろうか。だいたい、物心ついたときから何にでも逃げ出している気がする。何事かに本気になる、ということがどうにもできない性分らしい。あるいは自らの生というものに対して本気になることができないのだ。バカバカしさにやっていられない気分になる。

 

 人生なんて有るといえば有るし、無いといえばそれまでのもので、せいぜい五十年。敦盛は寿命の話ではないが、しかし、さしてかわりのあるまい。一生がただ夢の如きものであるのなら、また寿命が五十年でも百年でも差などなく、等しく夢々、苦痛を呷るも、幸福を呷るもそれは癖であって、せいぜいそれを味わうだけのことである。

 

 たとえばバカバカしくも20キロ近い本を抱えて日本を縦断、梅雨前線から逃れようというのもまた好しである。富山、新潟と北上して、山形あたりでようやくこのまとわりついたなにがしかを振り払おうとする。

 

 敗けた人間がなにかを得ようと思うべからず。である。けだし、イエというものにこもるのがよろしくなく、所有物というものがあるのは未練そのものというものではないだろうか?

北に来た

勢い北まで来たが何をするかなんて決めないでいたので歩くしかない。

北まで来たが。

キタまでキタが…。

くだらない冗句だ。

当たり前のように桜が残っている。

まだ3時のうちから空は白んでくる。

時間感覚で二時間。

季節感覚で一月半。

それくらいのズレがあることを忘れている。

けれども今日もまた午前四時から放り出されている。

昨日は新潟に、今日は小樽。先一昨日は東京の街に放り出される。

摩訶不思議なことばかり。

一月のズレも埋まるかどうか。

北へ北え。

負けた者は南に背を向けるしかないのだ…。

FARCE的文明の散文詩

 わたしは進歩主義などというものは嫌いだ。
 わたしは保守主義などというものは嫌いだ。
 我々はただ推移する。
 我々は何も進んでなどいない。
 ただ生まれ、ただ死ぬ。
 それだけのことを、進歩だの、保守だの、いかにもオオゲサ。
 新しさと思ったものは、いつも誰かが先に歩いている。
 それに気が付かないうちだけは進歩したと思っている。
 誰も世界の限界を超えたりなどはしない。
 新しい技術。
 新しい思想。
 新しい世界。
 そんなものは何も新しくなんてない。
 ただ生まれ、ただ死ぬことを。
 永遠、無限、空白、虚無、いかにもオオゲサ。
 新しいもの、古いもの。
 そんなものは何も無い。
 人間五十年を、にわかに変化することを進歩などと。
 わたしがわたしである以上はなく。
 誰かが誰かである以上はなく。
 なんの意味も纏わない。
 ただの推移を進歩などと。
 ただの停滞を保守などと。
 なにもかもがオオゲサに過ぎて、わたしはどうにも笑ってしまう。
 真面目にしようとすればするほど、深淵さなど何も無い。
 にわかに生まれてにわかに死んで。
 苦しみたくないから生きようとする。
 苦しみたくないから死のうとする。
 それだけのことをいかにもオオゲサ。
 どんなに頑張ってみようとしても、笑えてきてしまってどうにもならない。
 わたしはただわたしを遊び。
 苦しんでみては喜んで。
 喜んでみては苦しんで。
 誰も彼もがオオゲサすぎて。
 なんでもかんでも笑ってしまう。
 ただ生きてただ死ぬだけのことを、御託を並べてみてみれば。
 使命のなんの、まるでオオゲサ。
 仕方がないね。遊びだもの。
 それでもオオゲサすぎて笑っちゃうよ。

四月二七日のこと

 やってしまった。と、そのような後悔が苛むことをわかっているのに、私はどうして手を出してしまうのか。ひとえにそれは麻薬中毒者と同じことで、ドーパミンに犯されきった脳髄は、自制を喪い体を乗っ取るので、わたしはただそれをどこか遠くから眺めながら止めることも出来ないでいる。


 今日は何日経ったのかもわからないでいる。最後に自分でいられたのはいつだったのだろう。私のハイド氏は、しかしやめようと思えばやめられないということはないはずなのに、まるで制御不能機械仕掛け。


 カレンダーをめくっても、どうにも数字と結びつかない。一週間は経っていないらしい事がわかっても、なんの慰めにもなりやしない。過ぎたこと。と諦めるにはあまりに時間が経ちすぎている。


 苦しむのは当たり前だ。飲むべきではないのに酒を呑んだのだから、苦しまなければならないのは当然のことだ。私というものを喪って、時間を費やして、食事も取らず、睡眠も取らず、何かを作り出そうということもせず。


 こんなものが幸福なのなら私は幸福を望んだりしない。


 快楽に溺れて、獣欲に溺れて、酩酊に溺れて、過ぎた時間に溺れて、絶望に溺れて、多幸感に溺れる。


 まるで気持ち悪い存在に、下水にこびりついたぬめりのように、なんて気色悪い。


 精神を貶めて、引き裂いて、犯して、溶かして、壊して、打ち捨てて。


 器が空っぽなんじゃない。器さえもなくしてしまったら、いったいどうしてそこに幸福を満たすことが出来るのだろう。


 私は何? お前じゃない何者かだ。
 あなたは何? 私じゃない存在だ。


 未だ現実を否認しているだけで、酔っ払った挙げ句にこんなものを書いてしまうような、気持ちの悪い存在に。なにか出来るなどと思うなよ。


 月曜日、朝は良かった。喫茶店まで行ってみては、少しものが書けたので、昼前に家に帰って、途中から記憶がない。記憶がなくはない。私は、そこからゲームに手を出して、麻薬漬け。眠気に負けるまでゲームをして、現実ではしないようなおぞましい動作をさせてみてはゲラゲラ笑って、また快楽に溺れては食事も忘れ、ただひたすらに同じ動作を繰り返しては、ただ時間が過ぎるのを眺めるばかり。そうしてセーブデータを消して、費やした時間を積み上げた時間をただ消滅させて。聞くはずだったラジオをさえわすれて、ようやく、ブレーキを掛けて、ようやっとこれを書いている。


 食事もせずに、糧を得ようともせずに、何かを作ろうともせずに、時間だけを浪費する最低。


 最低だね、と自分がささやく。
 まるで動物以下の存在だと、私をなじる。


 いつだってただ時間を過ぎさせた時には、ただ快楽に溺れていたときには最悪な気分の目覚めが待っている。


 誰かがそうするのではない。他ならない私がそうしている。


 どうして今日は醒めたのかまるでわかりはしない。ただ醒めた。


 脳が求めるもの、身体が求めるもの。まるで別人。


 私という存在は、いったいどちらが本性なのか。


 快楽物質が私を動かすのか? 私という存在がそれを求めさせているのか。まるで何もわからない。


 わかること。ただ苦しんでいることだけ。そうやって苦しんでいる自分をさえなじって、また何も無いところへと引き込もうとするなにか。


 喜ばしいことなど何もなく。今日もただ一日を終わらせてしまった。